Y.SO.14

 

「……アンタまさか『たくあん』とか言わないでしょうね?」

 

 ……あれから、もう一年だ。

 

 絶対にありえないと思っていた候補が、まさか当たってしまった事実に愕然としつつ、少年の名前は最終的にツナミが司と相談して決めた。

「アラン、あの子、今日はもう来た?」

 書類の山がひしめき合っている部屋の奥。ひときわ脚の長いデスクの前。落ち着きなく突っ立って報告書に目を押す黒コートを視界に入れて、ツナミは入ってきた扉が閉まるのも待たずに声をかける。

 その声は唐突だが明るく、広いが散らかった部屋によく通る。

 返事はない。

 ぐりん。執務室に点在する物静かな事務員たちの視線が、一斉に花を愛でる。しかし一番欲しかった金色の蜜がこちらを向いておらず、ツナミは不満げに唇を尖らせた。

 せっかくあたしが来てあげたのに。

 本当は、尋ねておきながら回答は特に要らなかった。

 玻璃也(はりや)なら、この部屋に入る直前に階段の踊り場で見つけている。相変わらず緑豆、……みことに、無理難題をねだって困らせていた。いまだ衰え知らずの殺気にはいっそ感心したほどだ。

 

 ……でも、魔王は強いわよ。

 なんてったって、あたしが惚れるくらいなんだから。

 

 かつて、あの子供が「魔王を殺す」と言い放ったとき、魔王軍の心は一致した。

 曰く、「できるものならやってみろ」。

 魔王を倒すということは、魔王配下の自分たちを倒していくことだ。そんなことができるのなら、やって見せろ。ツナミを含めヴィランズの仲間たちはニヤニヤ笑いながらそう思った。

 それは過信ではない。侮りでも過小評価でもない。

 それは矜持だった。ヴィランズにいる者として、魔王に仇なすものは必ず排除するという、魔王の部下の矜持だった。

 

 コツコツコツ。ツナミはヒールを鳴らして迷わず奥に進む。びよん。頭の動きに合わせて荊食むツルが跳ねる。しゅるり。ひときわ大きな薔薇が一輪、存在を主張するように蕾を付けた。ぶわり。花開くと同時に香りが充満する。

 魔女が通った道に、薔薇の残り香が漂う。

 そうして最奥にたどり着いた花人は、黒の背中に丸めた冊子をポンと打ち付け、首をかしげた。

「ねぇ、聞いてる?」

 少年の本日の戦況は。

「ん? あぁ。今日は……、朝一に来てたな」

 返答は、思いのほかそっけない。

 ちらりと意識を向けた感動のない視線は、すぐさま手元の書類に引き寄せられる。その表情は硬く、暗い。アランがノリ悪いのは今に始まったことではないが、どことなく緊迫したような、すべてを否定するような、いつもと違う無言をまとっていた。

 

「毎日毎日飽きもせずに頑張るわね。でもいいの? あんな熱烈な殺意を放っておいて」

 

 ツナミは違和感を覚えながらも、普段通りを崩さず言葉を続ける。

 少年が「殺してやる」と言い続けるのは勝手だが、ツナミにとってはアランが不快に思っていないかどうかの方が重要だった。

 

「構いやしねぇよ。生きる目的が『俺を殺すこと』なんて、魔王冥利に尽きるね」

 

 しかし軽口返すアランの様子は、もうすでにいつも通りのツナミが愛した魔王の姿で。ぺらり。報告書がまた一ページ進む。

「それに、」

 昏々と光を放つ金色の瞳に、真紅の薔薇が映る。

「それに?」

 期待するような含みを持たせて、ツナミはにやりと花を咲かせる。

 アランは顔を上げた。強気な流し目がツナミをとらえ、ハッと笑いながら言い放つ。

 

「殺そうと思えば殺せる相手には、誰も『殺してやる』なんて言わねぇだろ」

 

 アランにしてみれば、少年がわざわざ自分への殺意を口に出す行為こそ、「まだ自分には殺せない」と言っているも同然だった。しかし、だからといって芽生え始めた純粋な殺意を馬鹿にする必要もない。

 殺せるだけの力と意思を持ったとき、「殺すことができる」という選択肢を持ったとき、人はむしろ「本当に殺していいのか」を自問するようになる。魔王はいつか来るそのときを、ただ静かにじっと待つ。

 カサ。数枚の用紙を束ねた報告書が、レポートの墓地に沈んだ。

 

「……で、なんかあった?」

 

 ようやく注目カーソルをツナミに合わせて、アランはぐぐぐと背筋を伸ばす。ふっと空気が軽くなり、部屋に控えていた一人の事務員がほっと息をつく。

「今日中の案件か? 俺、来客応対があるから今日は厳しいぞ」

 指さした方向にあるホワイトボード。『ヤツが来る』とだけ書かれた本日のスケジュール欄。

「いや、急ぎじゃないんだけど、用というか、気になる点があって。ほら昨日、昨年の結果報告が提示されたでしょ? 総決算とは別の、毎年の小決算報告」

「あー、」

 ツナミは持参した冊子を指先で伸ばし、数枚をぺらりとめくる。企業名に強調をかけた冊子は、成果や進捗が両面にびっしり印刷され、その体裁はおよそ人に読ませるものとは思えない。

 アランは、「そういやそんなの来てたな……」と言いながらデスクをごそごそと漁る。自室の片づけができない男は、もちろん机の上も汚かった。

 とりあえず目についた書類を整理しなさいよ。とはツナミの助言。呆れを帯びた頭の花が、揺れる頭に合わせてはらはらと赤い花びらを散らす。自分と同じ文書を探す魔王を待つ間に、部屋全体を見回す。

「えーっと、まず、これはチェック終わったから……」

 

 報告と記録の中間地点。魔王の確認を今か今かと待っている書類のたまり場が、この執務室だった。

 『感染症に関する経過報告』と題された紙の右下、魔王印の印鑑が朱を差す。クリップ止めされた紙束が、記録ファイル行きと書かれた卓上ボックスに飛んだ。ぼす、とそれなりの重量を感じさせる音が、大理石囲む執務室に浅く響く。

 まだ書類は見つからない。

 この部屋が完全に整理整頓されたところを、実はツナミは見たことがなかった。

 後回しにしてもいい案件がどんどん部屋の隅にたまっていく一方で、許可を出さないと動かない事案が「確認はまだか」と魔王をせっついている。おびただしい量の書類を前にして、アランの顔はいつ見ても寝不足だった。

 

 その割にはTシャツの文字は今日も絶好調である。気が抜けそうな『ぽろしゃつ』の文字。洗濯しすぎでくたくたになっている。ツナミは決意した。アレ、後で捨てよう。そしてこの部屋は掃除しよう。

 

「バスター510? フォードんとこに不備があったか?」

 そんな花人の決定などつゆ知らず、魔王はようやく見つかった冊子に初めて目を通す。『株式会社バスター510 Y.SO.13 年報』と書かれたそれは、先の依頼でキメラ討伐を行った企業の報告書だった。

「5ページ目の、ここなんだけど……」

 キメラ特別対策室のページなんて、分厚い冊子の中ではわずかなものだ。その結果報告も端的にまとめられている。簡潔、といえば聞こえはいいが、あえて詳しく書かない裏事情が透けて見えていた。

 ……情報として参考になる部分は少ないわね。

 よってツナミも本腰を入れて確認する気などなかったし、この表記に疑問を抱いても、大した問題には思えなかった。

 

「あの日の日付で『死亡届提出記録』に載ってる名前が、一人足らないの」

 

 それは、ガレット一家の死亡記録。

 あの日、地下研修施設で、キメラにされながらも生きていた者たちの名前が、文面のちょうど真ん中に記されていた。

 『チサ・ガレット』

 『ヨウタ・ガレット』

 その下に続くはずの、『タクヤ・ガレット』の名前が、……ない。

 記録は二人の名前の横に逝去を記載して終わっている。いや、本来ならそれで正しいのだ。タクヤは現在「玻璃也」として、実際まだ生きている。だがそれでも、記録上では絶命の処理がされているはずだった。

 記録のミスならあとで修正をかければいい。人間の都合で殺されたのだから、人間の落ち度など気にかける必要はない。

 悠長に考えていたツナミに対して、しかしアランの反応は性急で反射的だった。

「速報の時には名前あったよな? 転載ミスか?」

 自問する言葉は断定の形をとる。口を動かすと同時にデータベースへ手を伸ばした。一年前のファイルならむしろすぐ見つかる。司が整理した背後の棚。そこに綴られた記録と、手元の冊子。やはり違う。

 

「ツナミ、すぐに修正をかけろ」

 

 ……硬い声だった。

 その一言が、この事案が思ったよりも大事であることを、何よりも伝える。

 アランの視線はじっと文字を追う。そしてバッと顔をあげ入り口を見た。正確には、大扉の上にある、古く巨大な壁掛け時計を。

 年代物の時計針が秒針を刻む。時は刻一刻とかさんでいく。

 ツナミの頬を、一筋の汗が伝った。

 ……名前のないことが、そんなに大事? 今このタイミングで気づいてよかった? いや、一日経った今日では、もう遅い?

 若苗色の腕に、ぞくり、鳥肌が立つ。

 昏々と輝く黄金の瞳は、何時しか剣呑な色を湛えていた。まっすぐはっきりと、口を開く。

 

「通達先は《バスター510》と《情報連コーツ》。できる限り迅速に訂正、そんで勇者組織にすぐ見せろ」

 

 言いながら引き出しを開け、一冊の本を取り出す。アランはその傷だらけの表紙を撫でる。

 古来より続く遠方との通信手段。本に書いた文字がそのまま通信相手の本に浮かび上がるというマジックアイテム、グラムノート。

 ハードカバーの重苦しい書物は、小型化軽量化を推し進める西大陸の最新技術に取り残され、しかし猛反発して生き残っていた。中でもアランが持つのは、宛先の識別番号すら手書き入力必須の最も古いタイプのノートで、古いゆえに利便性は悪いが、その分機密性に富んでいる。

 

「わ、分かった、けど、」

 押し付けるように差し出されたその書物を受け取りつつ、ツナミは眉をひそめて言葉を続ける。

 いまだ理由が不透明だった。

 ツナミが意味を理解しないことには、緊急性の説明などできるはずがない。修正依頼の必要性は分かるが、そんなに急ぐ意味とは。

「なんでHEROに…? 他企業の冊子が間違っていたとして、あたしたちに何か影響が…?」

 きょとん。目を丸くして顔を覗き込む、のは、しかしツナミではなかった。

 

「……お前でも予測つかないとか、珍しいな」

 

 アランは心底驚いた風を装って、ぽつり、一言こぼす。そしてすっくと背筋を伸ばし、ぴんと立てた指を冊子の文字群に沿わせた。まっすぐ読み上げるように、理論を構築する。

 

「アレは、人間として処理された。死亡届がないということは、『タクヤ・ガレット』はまだ生きていることになる。そして、その事業にはこの俺が関わっている」

 落ち着いた声が、ただただ事実を述べる。

「空になったキメラ研究所。伏せられたキメラの存在。あえて情報の薄い企業の報告書。死亡届の足りない表記。世間からしたら、謎の魔王組織」

 連想ゲームのようにつぶやいた単語に、ツナミの表情がみるみる変わる。

 

「……あの日、みことは子供を背負って帰った…!」

 気づいて、しまった。

 

「そう。俺たちは、人間の子供を一人連れて帰ったことになる」

 

 …………

 ……

 平和維持活動法人HERO――勇者組織は、「勇者の義務」として魔王討伐を推進している。悪を倒し、平和を願い、すべてのものが安心して暮らすため、勇者は魔王を倒しに来る。

 だがそんな世のため人のための事業も、それは仕事、つまり、ただの業務の一環で行っているものだと、世間は認識し始めていた。

 どれだけ世界のためと正義を執行しても、すべて「仕事だから」で済まされる世界。

 ……勇者とは、魔王を倒してほしいと懇願され、期待され、人々の希望となって、平和を導く存在なのに。

 ぶっちゃけ今の社会情勢では、まず「魔王を倒してほしいと懇願」されているところから怪しかった。絶対悪が倒されたからと言って、一般市民が受け取る利益は少ない。そもそも基本的な問題として、あまり悪を倒してほしいと思われていない。そんな状態では、魔王を倒すことに意味などない。

 

 つまり勇者側は、自分たちを正義の使者に見せる一方で、魔王を絶対悪に仕立て上げなければならないのだ。

 

 そのために手っ取り早いのが、揚げ足取りだろうが何だろうが、重箱の隅をつつくように「悪」の部分を見つけ出し、糾弾して同情を得ること。

 ……たかだか一つ名前が記載されていないだけだが、「魔王が子供をさらった」という見方ができる現状は、魔王軍の「悪」を示す非常に面倒くさい状態だといえる。

 

「あいつらのことだ、こういう不備は目ざとく見付けて突いてくるぞ。悪と呼ばれるのは大いに結構だが、こんなせせこましいことで難癖つけられるのは、……純粋に腹立つだろ」

 

 アランの口調は静かだった。だがにじみ出る嫌悪感は隠していなかった。ツナミもため息をついて同調する。

「特に子供となると、人間は簡単に同情的になるものね……」

 若苗色の手がノートを開き、ペンを走らせる。

 納得だ。確かに早急な処理が必要だった。今日の予定を変更し、情報屋の人員総出で対応にあたる必要がある。

 文書を送った先の室長が「ホンマや! すまん! 今から修正する!」と即座に汚い字で返してくるのを目にとめ、ツナミは情報屋連合への対応を急いだ。

 書物を片手に真っ赤なヒールを鳴らそうと身をひるがえした、その途端。

 

 

 突如。

 バタン! と弾みをつけて、執務室の封が破られる。

 轟音と爆音。突風が吹いたような勢いと、飛び込んできたようなけたたましさ。

 紅の髪を散らす風圧。部屋の隅に積み上げられた書類が、バサバサとパニックを起こす。

 

「魔王様! 大変です! 勇者が、勇者が……!」

 

 そこにいたのは、先ほどまで執務室にいた事務員の男だった。魔王の機嫌にほっと息をついていたはずの彼は、いつの間にか部屋の外にいたらしい。

 バタバタと勢いよく、ワタワタと焦りながら、紙片が散らかる執務室を土足で荒らす。

「どうしよう。ぼく、ダメです。勇者が、逃げなきゃ、……」

 慌て切った事務員の切羽詰まった呼吸音。ツナミがパタンとノートを閉じた。まっすぐに男を見つめて、落ち着きなさいと一言かける。

「予約のない勇者なら、まず司が応対するはずよ」

 来客の一時対応は司の業務だ。しかし事務員は細かく首を振った。喉から漏れ出す音が言葉の形をとっていない。

 アランの眉間にしわが寄る。小さく舌打ちが漏れる。

 

 ――ほかの、それこそお金関係とか事業内容とか、そっちの不備ならまだ時間的な余裕もあるだろうが、誘拐、拉致、人さらい、……人命関連はだめだ。アイツが、このチャンスを逃すとは思えない。間違いなく勇者は動く。なぜなら。

 

「いや、それが、まさか、あの人が、そんな……」

 要領を得ない事務員のうわごと。魔王は忌々し気に目を細める。

 

 ――……人命救助は、勇者(アレ)のお家芸だ。

 

 ただならない男の様子はツナミの表情に深刻を注す。すがるような視線は、ひたすらに魔王の対応を求める。

「…………来たか」

 アランは驚かなかった。いつかこうなる日が来る予感がしていた。

 首から滴る二本の鎖が、じゃらりと笑う。

 

 

「勇者筆頭レビン・アールヴヘイムが、乗り込んできました…!」

Colmun